いよいよ、第一郭へ
彦根城の現在の正門は「表門」になっていますが、当時は大手門でした。築城当時は敵方の大坂城の向き(西)に大手門(用語解説参照)を作り、豊臣氏滅亡後は東山道(中山道)に近かった表門が実質の正門になったともいわれています。江戸幕府への朝鮮使節団が往来した街道に近いのは大手門です。ですから彦根城には玄関が二つあります。
城山を覆う深緑の木々は、城郭の構造を隠すとともに籠城(用語解説参照)時には食料や薬などに用いるよう植えられたものです。天守のある本丸までは急で長い石段が続きます。普段、運動をしていないと辛いです。でもこれも敵に易々と攻めてこられないようにするための対策のひとつなのです。藩主は日常を山麓の表御殿で過ごし、いざとなると天守にこもったのです。
9.表御殿(彦根城博物館)
彦根藩の政務が行われ、また藩主が日常生活を送っていたのが表御殿でした。廃城令により明治年間に解体されましたが、発掘調査を経て1987年に彦根城博物館として復元されました。政務が行われてきた「表向き」は外観のみが復元され、内部は井伊家に伝わる美術品や古文書などを常設展示、定期的に企画展が催されています。藩主のプライベート空間であった「奥向き」は当時さながら忠実に復元されています。館内の能舞台は江戸時代の表御殿の中で現存する唯一の建物です。明治以降、他の場所に移されていましたが、表御殿復元の際、戻されました。
>>TEL.0749-22-6100/500円/8:30~17:00/年末休館
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堀切
10.鐘の丸
築城当時、時報鐘を置いていたのでこのような名称になっており、鐘は音がよりよく城下に響くように現在地に移されました。鐘の丸を通らなければ本丸へとは進めない縄張りであるため、城内の中で一番堅固な郭だと言われています。大広間御殿と御守殿の二つの建物がありましたが、大広間御殿は享保17年(1732)江戸屋敷の広間として移されました。御守殿は徳川二代将軍秀忠の娘の宿舎として建てられますが、順路変更で実際は泊まりませんでした。以後はそのまま保存し、武具の虫干しに使用したとの記録が残っています。明治維新後に大津に移築して戦後に焼失してしまいました。維新前までは水が湧いていたと言う空井戸は抜け穴だと言われたこともありましたが、飲み水として使用されたようです。
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おおとっくりいちご
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落とし橋
11.天秤櫓【重文】
表門と大手門からの山道が合流する要の位置に築かれた櫓で、文字通り、天秤のような形をしています。均整のとれた美しさと堅固さを併せ持つ、他に類例がない櫓です。廊下橋から見て中央の門の右側と左側の石垣を見比べてみてください。右側は築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)(用語解説参照)で、左側は1854年に大改修の際、積み替えられた落とし積み(用語解説参照)です。
12.時報鐘
築城当時は鐘の丸にありましたが、音が遠くまで響くようにと現在の位置に移されました。12代藩主井伊直亮の時代により音色の美しい鐘にするために小判を入れて造られたと伝えられています。今も定時に鐘がつかれ、その音色が「日本の音風景百選」に選ばれています。毎年12月31日には誰でも参加できる「除夜の鐘をつく集い」が行われています。
13.太鼓門櫓【重文】
本丸への入り口を固める最後の関門で、緊急を知らせるための太鼓をおいたことからこの名が付きました。東側の壁が取り払われ、柱との間に高欄(用語解説参照)をつけ、廊下にした珍しい構造になっています。太鼓の音をより大きく響かせるためだという説もありますが、定かではありません。
昭和年間の解体修理の際、行われた調査でどこかの城の城門の規模を小さくして移築されたということが分かりました。ただ、それがどこの城かということは未だに解明されていません。正面左側の石垣にもご注目ー自然の大きな岩をそのまま石垣に使用しています。
14.天守【国宝】
牛蒡積みの石垣に築かれた三階三重の天守に付櫓が附属する「複合式」という形式です。付櫓は現在、天守への出入り口になっていますが、当時は別のところにあった入り口に侵入しようとする敵を側面から攻撃するための施設でした。
△東西南北から見た天守
天守の形式
主に4種に分類される。(1)独立式:天守のみが建つ。(2)複合式:天守に付櫓が附属している。[彦根城・犬山城](3)連結式:天守と小天守を渡櫓でつないでいる。(4)連立式:天守と小天守3棟を渡櫓でつないでいる。[姫路城]
内部の階段は90度に近い角度の、特に降りるのが恐い階段です。スカートの方は要注意です。これも敵が登りにくいようにしたためだと思いますが、ここまで攻められたら藩主も覚悟を決めなければなりませんね。ただ、彦根城が完成してからは戦が行われませんでしたから、このような備えが活用されることはありませんでした。
彦根城天守は全階を一本で貫く「通し柱」を用いないで、各階毎に積み上げていく形式をとり、揺れに備えています。天井を見上げていただくと、梁行(用語解説参照)に対して桁行が2倍近くあります。つまり、長方形の天守で、正方形に近い形をしているのが多い中で珍しいということです。彦根城天守は立面だけでなく、平面にも特長を持っているということですね。外から見ると東西面は鋭い雰囲気を持ち、南北面は重厚な安定感を持っています。ですから、東西南北どの方向から見てもべっぴんさん(男前?)なんです!
彦根城は三階三重の比較的小さな建物にもかかわらず、装飾が巧みにバランスよく施された、美的完成度の高いお城です。それが、国宝に指定された理由の一つです。
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1.華麗な装飾
破風とは屋根の妻(端)にある三角形の外壁部分をいいます。日本建築の切妻造りや入母屋造りといった屋根の形によって「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」「千鳥破風」などがあります。彦根城天守には「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」「千鳥破風」の4種類もの破風がバランスよく巧みに施されています。このような複雑な屋根(破風)を持つ天守は他に例がないということです。
○花頭窓
花頭窓は窓枠の上部が尖った花弁のようになっている、曲線が美しい窓です。火を思わせる形から火灯窓とも書きます。日本では中世以降、主に寺院建築に使われました。彦根城には二階と三階に施されています。
その他、3階の望楼(遠くを見渡すための櫓)には高欄付きの廻縁を四隅に取り付けるなどの変化にも富んでいます。
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2.戦の備え
狭間は敵の襲撃に防戦するための設備で、外からは見えないようにしっくい壁が塗り込められています。彦根城天守には「鉄砲狭間」と「矢狭間」が75箇所もみられます。
○武者隠し
4・5人入ることができる小さな部屋。2階東・西側、3階南・北側の計4箇所ありますが、破風を造った結果出来た空間であり、敵を待ち受けた隠し部屋の意図があったかどうかは分かりません。
15.西の丸三重櫓【重文】
本丸の背後を固める、西の丸に位置する櫓です。三重三階の櫓の東と北側にそれぞれ続櫓が接続され、「く」の字のようになっています。天守のような装飾的な破風などはありませんが、質素な中にも気品のある櫓です。西側(裏手)には出曲輪との間に深い堀切が現存しています。こちらの方面からの敵に備えた守りの要でした。
彦根藩主井伊家の歴史が書かれた「井伊年譜」によると、築城当時は家老の木俣土佐に預けられ、家老は月の20日位、この櫓に通ったということです。
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竪石垣と竪堀
16.玄宮楽々園
4代藩主、井伊直興が1677年頃から、第二郭(内堀と中堀の間)に下屋敷(藩主の別邸)として造営した御殿です。槻御殿(けやきごてん)と呼ばれていましたが、現在は、建物部分を「楽々園」、庭園部分を「玄宮園」と呼び分けています。玄宮園は広い池を中心に9つの橋を渡した、回遊式庭園です。園内の鳳翔台は藩主が客人をもてなした客殿では、庭園を眺めながら御抹茶がいただけます。(お菓子付¥500)藩主もきっとここで一時日常を忘れてくつろいだのでしょうね。
堀切
天秤櫓
太鼓門櫓