|
|
伊吹もぐさと呼ばれる歴史は古く、百人一首の51番目にある、藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)の歌、「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 萌ゆる思ひを」に登場します。 ◎解説1=こんなにもあなたのことを恋しているということだけでも、私は打ち明けて言えないが、よもやあなたは伊吹のさしもぐさのように燃える私の思いご存じないでしょうね。 ◎解説2=こんなにも(好きだ)とさえ言えないでいるので、伊吹のさしも草のように燃える私の思いを、それほどまで(さしも)とは、ご存じないでしょうね。 ※注釈=藤原実方朝臣は清少納言の恋人だったので、彼女に負けないくらいの歌を作りたいと思い、 この歌を作りました。 このように古より「伊吹もぐさ」のブランドは全国に知られていたようです。 |
|
|
|
山麓の中山道柏原宿の老舗「亀屋左京」で売られている様子は、安藤広重の街道図にも描かれ、今もその店構えは残り、昔同様に営まれています。また、その店頭には同じく描かれている福助人形が訪れる旅人を迎えてくれます。
|
|
|
|
【亀屋左京のお話し】 坂田郡山東町柏原(現・米原市柏原町)に伊吹堂という看板のもぐさ屋がある。伊吹山の薬草は、『延喜式』という古い本に掲載されており、信長が薬草を植えた話もあるが、伊吹山の薬草からできるもぐさに、次の伝説がある。 柏原に全盛期には十数軒のもぐさ屋があり、その代表的な店は亀屋左京であった。品質もよかったけれど、先祖の七兵衛の巧みな宣伝が伊吹もぐさを有名にしたという。 |
|
天明二年(1782)に生まれた左京は、家業を継いでもぐさ屋となり、毎月沢山のもぐさを背負って売りに歩いた。あるとき中仙道を売りながら江戸へ着いた。財布の中にお金がたまっていたので、ついふらふらと吉原に遊んだ。 左京は、 「わしは伊吹山のふもとのもぐさ屋だが、だいぶお金をもうけたので、 お前さんたちにまいてやる。その代わり 『江州柏原伊吹山 本家亀屋のきりもぐさ』 と歌っておくれ」 と頼んだ。 近江へ帰ってからは、中仙道を行く雲助や馬子たちを呼びとめ、一杯の酒を振舞っては宣伝を頼んだ。すると、だれもがこの歌を口ずさんで歩いたので、大変宣伝になり、間もなく伊吹もぐさは天下に知れ渡ったという。 |
|