●自然観察って? | ●自然観察の魅力 | |
●自然観察の第一歩 | ●自然はともだち |
|
||
|
||
私たちはモノを見るとき、自分が今まで「見てきた見方」や、また、「生きてきた生き方」でしか周りのことを見ることができないのではないでしょうか。たとえば、竹という植物の仲間を普通「竹とササ」に呼び分けて暮らしています。ところが、南インドのコヤ族は、竹を7つに呼び分けて話しています。また、逆に私たちは「雪」の状態を「みぞれ、あられ、ひょう、ぼたん雪、こな雪」などいろいろな呼び方をしますが、イヌイットは英語のsnowという言葉さえ持たないといいます。 どうやら私たちは、自分の暮らしている社会の中や、自分が今まで学んできた知恵の範囲で、周りを見ているようです。つまり、自然を見るとき、民族として、個人として、それぞれちがっためがねで見ているということがわかります。 ここで、私たちはすなおに、自然を自然のまま見るという「自然観察」をすすめています。 |
|
||
観察ということは、相手をありのままに見るというところからスタートするといわれます。そのためには、たとえば「月のウサギは逆立ちするはずがない」とか「虹には七色に決まっている」といった固定観念は捨てる必要があります。自分の考え方や、知ってることだけで判断するのではなく実際に見たもの、事実を大切にすることがとても大切なのです。こうあってほしいとか、こういうはずだという心を捨てて、今まで自分が知っているというものであっても、はじめて見るという気持ちが「自然観察」の原点です。 しかしそのためには、たんに眺めるのではなく「見ようと思ってみる」「じっと見る」。このことによって、今まで見えなかったものが見えてくるのです。これが「わかる」または「発見」ということに発展します。 これらは人から見ればささやかな発見であっても、自分にとってはとても魅力的な発見です。自分が暮らしている人間社会や学校で教わっただけのものではなく、一歩も二歩も踏みでた喜びです。 このとき、自分の知らない自然が身近にあってよかったと思います。 「自然観察」は、このように「自分自身レベルの発見による喜び」を求めて行われる知的レクリエーションといっていいのではないでしょうか。これが「自然観察の魅力」です。 |
|
||
このように自然を観察することができるようになれば、自然は私たちに感動をもたらすばかりか、こころのささえとなるほど大切なものとなるはずです。 自然観察の目的のスタートは、自然に関心をもちはじめたすべての人々に、こころから自然観察の大好きな人間へと変えていくところにあるといえます。これが自然を守る第一歩となります。 私たちは、森の中に入り緑の木々を見上げるとき、なぜか心のやすらぎを感じます。それは本来、人類も自然の中の生きものたちと同じく、自然の中で生まれ、自然によってささえられ、育てられてきたからでしょう。自然観察は、たんに眺めるだけでなく実際に自然に触れ、味わい、じっと見ることによって自然の大きさや、こまかな動きがわかり、同時に喜びを感じ、かけがえのない自然の大切さを身をもって体験するのです。これは決して花の名前や動物の名前を知るという知識をうえつけるのではなく、自然を観察する人の心を豊かにしていくということが目的なのです。 |
|
|||
「自然だ〜い好き人間」になると、今まで見ていた同じ景色でも違って見えてくるはずです。自然観察の第2段階は、人と自然のかかわりにおいて「なにかおかしいな」と感じることです。 たとえば 「子どもの頃、あの川にはホタルがたくさん光って飛んでいたのに」「あの桜の大木が枯れかかっている、どうかしたいな」 また、最近は飼いきれなくなったペットを平気に捨てる人。 「町中のみぞ川にピラニア」「大きくなった南米産のカメのなかまマタマタ」、ともにかまれるとたいへんなことになります。 それだけではありません。ゴミを平気で野や川や山に捨てたり‥‥。 山をくずして建物を建てたり、川をコンクリート張りにしたり、 もちろん、私たちのびわ湖にすむ生きものたちも、「ここしばらくの間にかなり様子が変わって住みにくい」といっているかもしれませんね。 自然観察とは、自分が図鑑で見た知識をためすのではなく、自分の住んでいる土地の自然をこころの中に感じ、今まで見えなかったものを発見することです。 そして人と自然が、どうすればなかよく幸せに暮らせるのか考えなければなりません。 自然観察の第2段階は、「なにかおかしいな」と感じ、「自然とともだち」になりたいという気持ちで自然の中に入って体験することです。 |
|||
|