伊吹山の植物と地質と文学

伊吹山の地質や地層を調べてみよう!

滋賀県と岐阜県の県境に横たわる伊吹山は、古くから知られ、日本最古の書「古事記」や「日本書紀」に日本武尊とともに登場します。ここでは、それよりさらにさかのぼり、伊吹山誕生からの自然史を科学的に探る「地学」から見た、いろいろな話を取り上げました。それは、伊吹山がどのように形づくられ、どのようなことが起こってきたのか、これらを証明する何が今に残り伝えるのかなどです。
今のところ、3名の筆者の承諾を得て、3つのテーマ「伊吹山の地質と地層を調べてみよう!」「伊吹山山麓に眠るモノチス化石」「伊吹山崩壊 百十数年前の姉川地震」を掲載しています。
筒井杏正

1. 遠くからみる伊吹山の地質

2. 雨に溶けやすい石灰岩

3. 非石灰岩って?

4. 伊吹山の山頂の地形

5. 伊吹山の石灰岩の誕生
1. 恐竜が眠る谷

2.謎の多い生態

3.三畳紀の世界

4.生きものたちの栄枯盛衰
1. 百年以上前の姉川地震

2.この時 伊吹山崩れる!

3.山崩れは地震だけではない!

4.1989年「小泉層」が露出

5. 4500年前の植物の化石

















伊吹山の地質と地層を調べてみよう
レポート:酒井助太郎
企画・編集・写真・図:筒井杏正


伊吹山は、全て石灰岩でできている?
yoko.html
 琵琶湖側から眺める伊吹の山肌は、大部分が石灰岩からなります。岐阜県側からは頂上付近しか見えませんが、大まかに見て、伊吹山ドライブウェイより上は石灰岩で下は非石灰岩(石灰岩以外の岩石)です。
 写真1は、伊吹山の南方にある清滝山山頂から撮影したもので、同じ範囲の岩石の分布を示したのが図1です。
 清滝山山頂から見ると、伊吹山全体の岩石分布がよく分かります。ドライブウェイを登ると海抜1、150m付近から石灰岩が見られるようになります。 ▼ 清滝山山頂から見た伊吹山の岩石分布図







雨に溶けやすい石灰岩


石灰岩と石灰石はどう違うの?

 ”石灰岩”は、炭酸カルシウム(CaCO3)でできた岩石で、マグネシウムを多く含む苦灰岩やマグマの熱を受け結晶質となった大理石などとともに炭酸塩岩というグループに含まれます。石灰岩を建築石材や道路の採石、その他の資源として見た場合、”石灰石”と呼びます。
 石灰岩は、酸性の水(二酸化炭素が溶け込んだ雨水など)に溶けやすい性質があり、石灰岩特有の岩肌や地形(カルスト地形)ができます。

カルスト地形(東登山道) →


    
↑ 資源として石灰岩を見る場合は”石灰石”と呼ぶ 


 ”石灰岩”(溶食された岩肌が特徴的)

【カルスト地形】
 石灰岩など溶解しやすい岩石が分布する地域の地表と地下で発達する特有の地形です。石灰岩柱・ドリーネ・石灰洞などがあります。

【カレンフェルト】
 溶食によってできた石灰岩柱の表面に発達する小溝をカレンと呼び、カレンのたくさん見られる小起伏の点在する地形をカレンフェルトと呼びます。この地形は山頂一帯で見られます。(写真3)

【ドリーネ】
 ドリーネは、すり鉢状の凹地で、山の斜面に降った雨水が地下に浸透する過程でできます。ドリーネの底が地下へ続く洞窟のへの入口になっていることもあります。写真4のドリーネは、東登山道を下って行って駐車場が見え始める辺りの左側にあります。

↑ カレンフェルト(西登山道山頂付近)
                 ドリーネ(東登山道) →

 非石灰岩としてまとめられている岩石には、砂岩・泥岩・チャート・緑色岩等があります。砂岩や泥岩は大陸からもたらされた砂や泥がもととなってできました。また、チャートは、陸から遙かに離れた沖合の海底で、放散中の殻やカイメン(海面倒物)の骨針が海底に堆積してできました。


チャートの露頭

枕状溶岩   (鈴岡神社入り口付近の露頭)   ↑緑色岩

 「チャートの露頭」は、ドライブウェイ沿いで見られま す。緑色岩は、海底火山から噴出した玄武岩質溶岩です。枕を積み重ねたような形をしていることもあり、こうしたものは枕状溶岩と呼ばれています。枕状溶岩は、溶岩が水中で噴出したことを物語っています。 右写真はドライブウェイ沿いの鈴岡神社入り口(海抜1150m)付近の露頭です。緑色岩の上に石灰岩が重なっていて、枕状溶岩も見られます。

 伊吹山山頂一帯は右写真のように緩やかな起伏があり、高原のような雰囲気です。どうしてこんな地形が できたのでしょう。 →

 石灰岩は溶食されやすい反面、風化によってボロボロにはなりにくい性質があります。一方、その下にある非石灰岩は、風化侵食が早く進みます。伊吹山は隆起量が大きく、侵食から取り残された石灰岩が、岩の塊となって山頂の台地状の地形をつくっているのです。
 【さざれ石】 伊吹山の山腹から麓にかけての斜面には、角礫状に割れた石灰岩が崩れ落ち溜たまったところがあります。この石灰岩の礫が炭酸カルシウムによって固かためられ石灰角礫岩(せっかいかくれきがん=さざれ石)ができます。岐阜県揖斐川町のさざれ石公園には巨大なさざれ石が鎮座しています。また、滋賀県多賀町の多賀大社にも、おめでたい石として祀まつられています。

岐阜県揖斐川町のさざれ石公園

滋賀県多賀町の多賀大社のさざれ石


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赤道付近で生まれた 石灰岩がどうしてここに?

伊吹山の石灰岩の誕生

 伊吹山の生い立ちは、古生代ペルム紀に大陸から離れた海の真ん中で海底火山の噴火によって海山ができたことにまでさかのぼります。
 石灰岩は、熱帯地方の大陸から離れた海洋にある火山( 海底火山) で生まれたと考えられています。
 暖かく浅い海だった海山の頂上には、サンゴ礁が発達し、このサンゴ礁が石灰岩のもととなりました。
 赤道付近で生まれた海山は、その後プレートの移動によって少しづつ北上し、付加体として日本列島の骨格の一部を構成しました。
 こうして、バラバラになった海山のカケラが地表に再び顔を出し、隆起によって伊吹山へと成長していったのです。


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伊吹山山麓のモノチス化石

執筆・写真:阿部勇治
企画・編集:筒井杏正  図:脇坂友美 筒井杏正


恐竜の隣人が眠る谷


 伊吹山の山頂から東へ約8kmほどの場所に、茗荷谷と呼ばれる谷があります。一見したところ特に変わった様子もない小さな谷ですが、ここには最古の恐竜たちと同じ時代(中生代三畳紀後期)を生きた海生の二枚貝「モノチス」が化石となって眠っているのです。   
 茗荷谷とその周辺には、丹波・美濃帯の大滝ユニット(または春日野層)に含まれる泥岩や砂岩(かつては妙ヶ谷層と呼ばれていた)が分布し、モノチスの化石はこうした岩のごく限られた部分に含まれています。

 古生代ペルム紀に海山が形成されてから、ずっとその周辺の海域はパンサラッサ海のはるか沖合にあり、大陸からやってきた泥や砂が堆積することはありませんでした。

 しかし、三畳紀後期には海洋プレートの移動によって大陸の縁へと近づいてきたため陸源性の泥や砂が堆積するようになり、これらが後に泥岩や砂岩となったのです。

茗荷谷のモノチス化石産地 →

茗荷谷のモノチス化石は揖斐川町の天然記念物( 茗荷谷の二枚貝化石: 昭和53 年12 月18 日指定) です。化石産地は保護されており、勝手に採集する事はできません。

 ”大陸に近づいた”いっても、プレート境界付近の深海底にまで大陸側からの泥や砂が到達する機会は限られており、海底地すべりなどがきっかけとなって発生する混濁流が泥や砂を運んだと考えられます。

 茗荷谷のモノチス化石はどれもばらばらで2枚の殻がそろっている物はなく、砂岩には水流によって削られ巻き込まれたと思われる泥の塊も含まれています。どうやらモノチスたちは深海の底に生息していたわけではなく、死んで殻だけとなった後に混濁流によって運ばれてきたようです。


茗荷谷産モノチス(モノチス・オコティカ)化石




謎の多い生態



 モノチスは、ホタテガイなどの遠縁にあたるイタヤガイ上科の二枚貝です。左右の殻が非対称なところはホタテガイに似ていますが、左殻が膨らんでいて右殻は平らなのでホタテガイとは正反対です。(図2)
 大きさは数cm程度の物が多く、最大でも10cm程。殻が溶け去り印象だけ 保存されている場合が多いのですが、もともと殻は非常に薄く0.5mm程の厚さしかありませんでした。


右殻の蝶番付近に足糸し(固着性の二枚貝が殻を固定するために分泌する頑丈な繊維状の物)が付着していた溝があり、イガイやアコヤガイのような固着性の貝だったと考えられています。

 こうした特徴や仲間が世界各地で見つかっていて当時の海に広く分布していたとみられることなどから、流れ藻や流木などに付着して生活する擬浮遊性≠フ貝だった可能性が指摘されています。しかし、モノチスだけが密集した状態となっていて他の化石と一緒に見つかることはほとんどなく、現生の二枚貝に似た種類もないことから、彼らの暮らしぶりが実際はどのようなものだったのかはよく分かっていません。




三畳紀の世界


▲三畳紀後期(2億2千万年前)の地球とモノチスの分布
安藤(1983)を参考に作成


 モノチスの仲間の化石は全世界で約30種ほどが知られていますが、いずれも三畳紀後期の限られた時代の地層からしか見つかっていません。こうしたことから、地層の年代を比較する際の基準(示準化石)としてよく研究されてきました。茗荷谷のモノチス(モノチス・オコティカ)は、およそ2億1000万年前に生息していた種とされています。
 この時代の地球(上図)は現在とは異なる姿をしており、過去最大の大きさに成長した超大陸パンゲアとパンサラッサ海が、地球の表面の大半を占めていました。海と陸の配置は気候にも大きな影響を与え、両極付近まで温暖な気候となっていた一方で内陸には広大な乾燥地帯が広がり、メガモンスーンに支配された季節変動の大きな気象状況となっていたようです。
 モノチスの仲間が当時の赤道から両極近くにまで分布していた事も、世界中に温暖な海が広がっていた事と関係しているのでしょう。






 伊吹山の主要な岩石である石灰岩は、モノチスの栄えた時代から約6千万年さかのぼったペルム紀中頃の生物礁がもととなっています。こうした生物礁は海山頂部の浅い海に形成され、そこには”古生代型”の多様な生物(フズリナや四放サンゴ、ウミユリ類など)が生息していました。しかし、ペルム紀末に起きた2段階の大量絶滅事件(2億6000万年前と2億5200万年前)によって、そのほぼすべてが絶滅してしまったのです。
 当時の海洋無脊椎動物の90%以上が絶滅したこの出来事は、生態系にとてつもないダメージを与えた一方で新たな生物の進化を促すことにもなりました。

 恐竜やカメの仲間、さらに私たち人類へと連なる遠い祖先(哺乳形類)は、いずれもペルム紀に続く次の時代”三畳紀”に出現しています。モノチスをはじめとする二枚貝の仲間も、多様な種が現れ急速に勢力を伸ばしていきました。しかし、世界中で繁栄したモノチスも、三畳紀末に再び起こった大量絶滅事件を乗り越える事ができずに姿を消してしまったのです。

 ペルム紀末や三畳紀末をはじめ、過去の地球では生物の進化史に大きな影響を与えた5回の大量絶滅事件"ビッグファイブ"が起きています。そして現在、地球環境を変えるほどの力を手に入れた私たち人類が、6度目の大量絶滅の引き金を引こうとしているのかもしれません。


三畳紀の海底の様子



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百十余年前の姉川地震で
伊吹山が崩れる!

レポート:藤本秀弘
図解:筒井杏正   イラスト:脇坂友美

「明治四十二年八月十四日午後三時三十一分近江国琵琶湖の北東部姉川沖積地の市邑に大損害を與へたる大地震は本邦内陸に起これる近年の地震中最も顕著なるものにして烈震部百七十万里強震部四千六百八十万里弱震部四千四百五十万里・・・・」

 「明治四十二年八月十四日午後三時三十一分近江国琵琶湖の北東部姉川沖積地の市邑に大損害を與へたる大地震は本邦内陸に起これる近年の地震中最も顕著なるものにして烈震部百七十万里強震部四千六百八十万里弱震部四千四百五十万里・・・・」。
 上の文は、姉川地震が起こった2 年後に彦根測候所がまとめた報告書の最初に書かれているものです。最近は日本各地で大きな地震がたびたび発生して大きな被害が出ていますが、姉川地震が起こったころは、報告書に書かれているように希な大きな地震でした。
1909年( 明治42 ) といえば百 年以上も前ですが、この報告書には被害の様子が詳しく記録されています。8 月14 日ですから、村々の家ではお盆に先祖の霊を迎え入れる準備が忙しく行われていました。
 子どもたちも野山で摘んできた花をお墓にお供えする準備を手伝っていたはずです。
そんな時、震度6の激しいゆれが長浜市虎姫地域を中心とする一帯を襲い多くの家が押しつぶされたり、道路のあちこちにひび割れができました。
滋賀県では死者315 名、全壊家屋972 戸という大きな被害が発生しました。

図1 →
姉川地震の
家屋の倒壊率
(藤本,1986)




この時、伊吹山に噴煙のような土けむりが!

この報告書には、
「伊吹山は大地震と同時に砂塵を揚げて崩壊し為に一時山頂を見望すること能はさるに至り為めに噴火の報さへられたるも実際の崩壊は割合に僅少にして・・・」
と書かれています。
 地震とともに伊吹山の西側斜面で山崩れが起こり山頂が見えなくなり噴火したのかと言われもしたとのことです。もちろん伊吹山は、火山ではないので噴火することはないのですが、山崩れが噴煙のように見えたからでしょう。

図2→

 この時の山崩れでできた土砂は、山麓の姉川に向かって転がり落ち斜面に堆積し今も残っています。

 この地震の滋賀県での山崩れは伊吹山だけだったようですが、伊吹山の東側の岐阜県では262ケ所も起こった記録が残されています。1891 年( 明治24) に測量された日本で最初の縮尺2万分の1の地図を見てみましょう。これは姉川地震の起こった18年前にあたります。伊吹山の西側には大きな山崩れの様子が何カ所も描かれ「白じゃれ」・「大富ぬけ」と呼ばれています。(図3)

図3 →
明治24 年に測量された
日本で最初の
1/20000 の地図

伊吹山の北西上空
からの航空写真





山崩れは 姉川地震だけではない!

 どうやら伊吹山の山崩れは、姉川地震より前にも起こっていたようです。この地図で姉川が伊吹山の北西の甲津原方面から流れてくる川筋をよく見ると、山崩れが起こったふもとの「蝉合」 付近で大きく曲がっています。
 これは過去に起こった山崩れによって、伊吹山の斜面から崩れてきた土砂が姉川を堰き止めたのではないかと思わせます。





「小泉層」を発見!

 1989年秋の大雨による洪水は、川底を削り埋もれていた地層を露出させました。。この辺りの川底には、上流から流れてきた粒の粗い砂礫が堆積していましたが、 見つかった地層は流れ がゆるやかな所で堆積する粘土の地層でした。そして、伊吹町史編さん委員によって、この地層は「小泉層」(図3↑)と名づけられました。

「小泉層」を詳しく調べると…
 地層の下の方には九州の鬼界カルデラが噴火したとき( 約7300年前) に飛んできた鬼界アカホヤ火山灰が含まれていました。(図4↓)


小泉層から発見された木の葉の化石





四千五百年前の植物の化石

 またその上の層には、ウリハダカエデ、ミズメ、ケヤキ、クリ、アカガシなどの植物の化石が含まれ、それらの年代はおおよそ4500 年前のものであることも分かりました。

ブナの殻斗の化石

 さらに、小泉層の上の方からは約3000年前の火山灰が見つかり、「小泉層」はおおよそ5000 年前から3000 年前に堆積したものだと言えます。
 このことから伊吹山がおよそ5000年前( 縄文時代) に大きな山崩れを起こし、姉川を蝉合の付近でせき止め小さな湖ができ、そこに小泉層が堆積したと考えられています。

 伊吹山の最も新しい大規模な崩壊は、「姉川地震」の時に起こりましたが、縄文時代や弥生時代にも滋賀県では大規模な地震がたびたび発生したことが遺跡の調査で明らかになっています。

 これらの地震の時にも小規模な崩壊は起こっただろうと思われます。さらに最近の調査によると伊吹山では、約4万〜3万年前にも大きな山崩れがあったことが分かってきました。

 また、江戸時代に起こった琵琶湖対岸湖西の地震では、比良山地が崩壊し、伊吹山と同じように、安曇川に土砂が流れ込みせき止め湖ができました。当時の様子は、寛文年間の絵図に残されています。(図7)
 このほかにも伊吹山は、大雨などで今も崩れ続けています。

図7→
寛文年間に起きた地震の絵図
(大津市坊村共有)




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