伊吹山を詠った歌や文学

   紫式部

西行法師

さざれ石と伊吹山

松尾芭蕉(奥の細道)

寺田寅彦(随筆)

明治、大正・昭和に詠われた俳句


 伊吹山は古くから、人々との関わり合いが深い山で、「古事記」では倭建命・「日本書紀」では大和武尊の記述がある。
いずれも大和武尊が伊吹山で傷を負って亡くなるという記述であるが、日本書紀では神の化身を大きな白い「大蛇」とし、古事記では「白い大きい猪」、また「古事記」では膽吹山、伊服岐能山 「日本書紀」では胆吹山、膽吹山、五十葺山、伊富喜山等の文字が使われている。

■作成:筒井杏正・幸田正榮







■日本最古の書物「古事記&日本書紀」に登場
時代区分
書物名
伊吹山との関連
奈良初期
古事記
712年

 尾張に入った倭建命(=日本武尊)は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣(天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山(岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する。
 素手で
伊吹の神と対決しに行った倭建命(ヤマトタケルノミコト)の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。

日本武尊の前に現れたのは
伊吹山の神の化身
古事記では白い大猪が登場→


日本書紀
720年

 美夜受媛の経血について詠まれた和歌はないが、宮簀媛との結婚や、草薙剣を置いて、伊吹山の神を討ちに行く経緯に古事記と差はない。
 日本武尊が伊吹の神の化身の大蛇をまたいで通ったことから、神に氷を降らされ、意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉でようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津から能褒野へ到る。

伊吹山の化身 
日本書紀では白い大蛇が登場→

 ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、朝廷には吉備武彦を遣わして報告させ、自らは能褒野の地で亡くなった。時に30歳であったという。国偲び歌はここでは登場せず、父親である景行天皇が九州平定の途中に日向で詠んだ歌となっており、倭建命の辞世としている古事記とほぼ同じ文章ながら印象が異なる。

 伊吹山が、当時多くの人がたしなんだ、和歌によく登場するようになったのは、都が奈良からに遷都した平安時代(794〜1086)及びそれ以降で各種記録がある。
 都が京都に移ると、「伊吹山」は都により近い存在となり、多くの人々が和歌を作るようになった。歌を見ると当時の女官、殿上人達の確執などがうかがえて面白い。







高級ブランド品「伊吹もぐさ」を題材に歌った「和歌」
 特に、伊吹山自生のオオヨモギは、お灸の材料として高級ブランド品として全国に知られていました。
<恋歌の題材=伊吹のさしも草>
 その特徴として、一度火をつけると消えにくく、
長時間熱さが持続するということから、愛の燃ゆる想いを表す、「恋」を主題とする和歌の絶好の題材となりました。それは、主として女官・殿上人達の和歌作成の題材となったようです。
※伊吹山の他「さしもぐさ」は下野(栃木県)の「しめじがはら」の「ヨモギ」を指すという説もある。【関連記事】

    


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  なっている

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伊吹山を歌った和歌&俳句史年表
平安時代
794年





1185年

清少納言
枕草子

990年

1001年頃

藤原実方

藤原道長と親しく,清少納言と交友関係あったとつたわる

生不詳
999(没)

紫式部
越前の旅


源氏物語
998頃



紫式部
1014
42歳没

<清少納言が詠んだ歌>
清少納言藤原実方
<返歌>
清少納言[枕草子挿入歌]
(縁言)
「まとこにや、やがては下る。」といひたる人に、
「歌枕名寄」6256番
「かがへくだるといふ人につかはしけるとな」
 思ひだに かからぬ山の させも草 
たれか伊吹の 里は 告げしぞ


※ 思ひ
(=火)、伊吹(=いう)
 里は
(=然(さ)と)
 告げしぞ
(=火をつけし)
【歌意】
 ほんとうですか。あなたが、まもなく下ってゆくというのは。」と尋ねた人に、全然思いもかけませんのに、いったい誰がそんなことを告げたのでしょうか。


また、もう少し激しい思いを窺わせる歌を実方に返している。「歌枕名寄」6255と6256番の両方にかかる
 いつしかも 行きてかたらむ 思ふこと いふきの里の 住うかりしを

<恋歌> 藤原実方 → 清少納言
 小倉百人一首

かくとだに えやは伊吹の さしも草
 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

【歌意】
 
伊吹のもぐさが燃えるように、あなたをお慕いしているとことだけでも打ち明けたいのですが、どうして言うことなどできましょう。

藤原実方
平安私家集の実方集

恋しとも えあは伊吹の さしも草
 よそにもゆれど かひなかりけり

【歌意】
 恋しいとどうして口にだしていえましょう。言うことの出来ないさしも草(私)は、よそながら燃えてもかいのないことです


その他

なほざりに 伊吹の山の さしも草 さしも思はぬ ことにやはあらぬ  
草隠れ 忍び舞ふ夜を 名のれとも えやは伊吹の 不破の関守







<紫式部が詠んだ歌>
名に高き 越の白山 ゆきなれて
 伊吹の嶽を なにとこそ見ね


【歌意】
(琵琶湖から伊吹山の雪がとても白く見えるが…)
名高い加賀の白山の雪を見なれたので、伊吹山の雪などなにほどでもない

紫式部は、父、藤原為時が越前守に赴任したとき、つき従っている。この時、頂きに万年雪残る白山を眺めている。

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<その他伊吹のさしも草を詠んだ和歌>
平安中期

春きぬと 伊吹の山邊にも またしかりける 鶯の声
 
(古今和歌集六帖 第二764 喜撰法師)
あぢきなや 伊吹の山の さしも草 おのが思ひに 身をこがしつつ
 (古今和歌六帖・第六・3586 藤原行成)
さしも草 もゆる伊吹の 山の端の いつともわからぬ 思ひなりけり
 (古今集六帖 藤原頼氏)
さしもやは みにしむいろも いぶきやま はげしくおろす みねのあきかぜ
 (古今集六帖 藤原俊成女)
契りけん 心からこそ さしも草 をのか思ひに もえわたりけれ
 
(古今和歌集六帖) 「加茂真淵全集 27巻」
なをさりに いふきの山の さしも草 さしも思わぬ ことにやはあらぬ
 
(古今和歌集六帖) 「加茂真淵全集 27巻」
秋をやく 色にぞ見ゆる 伊吹山 もえてひさしき 下の思ひも
 
(藤原定家 和漢朗詠集) 1018年




平安後期

(源平合戦)

鎌倉初期

平安初期
905年










古今和歌集


詠み人知らず

平安後期
1188年
千載集




<西行法師が詠んだ伊吹山の和歌> 1118〜1190
◎西行法師/西行上人集  山 家 集
 伊吹降ろしを題材として下記の歌を詠んでいる。

 おぼつかな いぶきおろしの 風さきに あさづま舟は あひやしぬらむ

 くれ舟よ あさづまわたり 今朝なせそ 伊吹のたけに 雪しまくなり

西行法師→
(菊池容斎画/江戸時代)

<その他 平安時代 伊吹山を詠んだ和歌>




 ◎国歌「君が代」の原形となった和歌
我が君は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで
 (第七 賀歌343 題知らず 詠み人知らず)

【歌意】
 さざれ石は、伊吹山の山麓の「細石公園」岐阜県揖斐郡の伊吹山の笹又登山道の入り口にある、
歌は文徳天皇(在位850〜858)の皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕えたひとりの木地師が、苔むして巨巌となっている珍しい石の状態を見て詠んだ歌で、「古今和歌集」に採録されている、身分が低いため古今集では「読み人知らず」となっている。


※さざれ石の学名は、「石灰質角礫石」と言う。伊吹山は石灰岩質が多く、その麓の姉川や春日村笹又周辺で多く産することは頷ける。
伊吹山さしも待つる時鳥 あおのが原をやすく過ぎぬる (冷泉為尹れいぜいためまさ)
※時鳥=ほととぎす

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鎌倉時代

1185年

1333年

1201〜
1210年


拾遺愚草

藤原定家
<藤原定家が詠んだ歌>
拾遺愚草 下 藤原定家全歌集上 2112番

秀能五首歌中、郭公
こひすとや なれも伊吹の ほととぎす
 あらはにもゆと 見ゆる山路に


【歌意】
伊吹山のほととぎすは、はっきりさしもぐさが燃えると見える山路で、そなたも恋心を燃やすというのでそのように鳴くのか。

拾遺愚草 中 藤原定家全歌集上 1873番

色にいでて うつろう春を とまれとも えやは伊吹の 山ぶきの花

【歌意】
はっきりと様子に現れて移ろっていく春を、山吹の花は「止まれ」とどうして言うことが出来ようか、なぜといって山吹はくちなし色だから。

拾遺愚草 上 藤原定家全歌集上 1157番

しられじな 霞のしたに こがれつつ 君に伊吹の さしもしのぶと


【歌意】
私が霞の下にむせびながら、このように恋心を打明けもしないで忍んでいると、あの人には知られないだろうか




和泉式部

和泉式部
「新古今集11 恋歌 1012

今日もまた

 かくや伊吹の さしも草

さらば我のみ 燃えやわたらん

【歌意】
今日もまた このように辛いことを あなたは言うのですか。
それならば 私だけが 伊吹のさしも草のように 恋の思いで燃え続けるのでしょうか。

 和泉式部は、恋多き女性と言われ、冷泉( れいぜい)天皇の子・為尊( ためたか )親王やその弟、敦道( あつみち )親王との恋の顛末はよく知られています。
 この歌は、恋する女の激しい情念と言おうか、少し怖さえ覚えてしまいます。ただ、誰にあてて詠ったかは定かではありません。




<その他 鎌倉時代と室町時代 伊吹山を詠んだ の和歌>
鎌倉初期
古今和歌集


詠み人知らず
さえまさる 伊吹が嶽の 山おろしに こほりはてたる 余吾の内海
 
衣笠内大臣(衣笠家良) 1192〜1264
【歌意】寒さが一層厳しくなる、伊吹の嶽のやまおろしで、凍ってしまった余呉の内海
 「夫木和歌抄 巻第二十一嵩」

たまかつら  伊吹の山の 秋の露 誰おもかけの 末虫をこえ
  順徳院(1197〜1242) 後鳥羽天皇の第三皇子、84代天皇
【歌意】鳴き弱った垣根の虫も秋を止められないように、わたしもあなたが行くのを止められない

さしも草 さしもしのびぬ 中ならば 思ひありとも 言はましものを
 (正治初度百首・1175、藤原俊成) 1200年

忘れじと ともに伊吹の さしも草 さしも契りし 言の葉ぞかし
 (万代集・恋四・2385、北条重時)  1248年
室 町
南北朝
千載集
さしも草 さしもひまなき 五月雨に 伊吹の岳の なほや燃ゆらん
 (新拾遺集・夏・269、藤原家良) 1364年






<江戸時代は、俳句の題材に・・・>
時代区分
書物名
伊吹山との関連
江戸中期
1669年
松尾芭蕉


奥のほそ道












「後の旅集」
「笈日記」

元禄四年
1961年
松尾芭蕉(1644〜1694.10.12)

 そのままよ 月もたのまじ 伊吹山
【歌意】
 月が見える見えないで一喜一憂している心の中では、すでに煌々と照る月が宿っているではないか。芭蕉はついに、仏頂の月を手に入れたのである。
 芭蕉は約5カ月の「奥の細道」を大垣で終えた、その大垣から伊吹山を見て詠んだ句である。
 奥の細道は9月大垣で終わるが、そこで招かれた大垣藩士高岡三郎(俳号斜嶺)亭の戸を開けると、西方に孤立した伊吹山の姿があった。花も雪にもよらず秋の月さえも不要なほど、毅然とした孤山の徳を芭蕉に感じさせたのだった。芭蕉の俳句は禅僧「仏頂」の教えを受けて一段と奥の深いものになった。


 
折々に 伊吹を見てや 冬籠
※大垣市八幡神社境内の冬籠塚の石碑(S34大垣市文化財協会建立)が立てられている。

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「芭蕉の句」を気象学的に見て科学的に分析した寺田寅彦(随筆)
大正13
1924年
2月
寺田寅彦

随筆集
第三巻
「俳句と芸術」



潮 音
※「寺田寅彦全集 第11巻 岩波書店」参照
寺田 寅彦(1873〜1935)
 芭蕉の
「折々に伊吹を見てや 冬籠」についての考察が記されている。
【随筆からそのまま抜粋】
 学生時代の冬休みに、東海道を往復するのに、ほとんどいつでも伊吹山付近で雪を見ない事はなかった。神戸東京間でこのへんに限って雪が深いのが私には不思議であった。現に雪の降っていない時でも伊吹山の上だけには雪雲が低くたれ下がって迷っている場合が多かったように記憶している。その後伊吹山に観測所が設置された事を伝聞した時にも、そこの観測の結果に対して特別な期待をいだいたわけであった。
 
問題の句を味わうために、私の知りたいと思った事は、冬季伊吹山で雨や雪の降る日がどれくらい多いかという事であった。それを知るに必要な材料として伊吹山および付近の各地測候所における冬季の降水日数を調べて送ってもらった。その詳細の数字は略するが、冬期すなわち十二月一月二月の三か月中における総降水日数を、最近四か年について平均したものをあげてみると、次のようである。
伊吹山  六九、二    岐阜   四十、二
敦賀   七二、八    京都   四九、二
彦根   五九、〇    名古屋  三〇、二

長浜市びわ町南浜水泳場から伊吹山を望む
 すなわち、伊吹山は敦賀には少し劣るが、他の地に比べては、著しく雨雪日の数が多い、名古屋などに比べると、倍以上になるわけである。冬季三か月間、九十日のうちで、約六十九日、すなわち約七十七パーセントは雨か雪が降る勘定である。
 以上の事実を予備知識として、この芭蕉の句を味わってみるとなると
「おりおりに」という初五文字がひどく強く頭に響いて来るような気がする。
そして伊吹の見える特別な日
が、事によると北西風の吹かないわりにあたたかく穏やかな日にでも相当するので、そういう日に久々で戸外に出て伊吹山を遠望し、きょうは伊吹が見える、と思うのではないかとまで想像される。
またこの「冬ごもり」の五字がひどくきいて来るような気がするのである。
 これはむしろ学究的の詮索に過ぎて、この句の真意には当たらないかもしれないが、こういう種類の考証も何かの参考ぐらいにはなるかもしれないと思って、これだけの事をしるしてみた。もし実際かの地方で、始終伊吹を見ている人たちの教えを受けることができれば幸いである。







明治・大正・昭和時代 伊吹山を詠んだ俳句集
江戸中期
(元禄年間)
芭蕉の俳人
中川乙由(伊勢山田の人。通称喜右衛門。別号麦林舎)
 
秋はあの 伊吹にありて 蘇鉄山
江戸後期
明 治
政治家
原敬(1856〜1921)
 雪晴や 目鼻書きたき 伊吹山
明 治

大 正

昭 和

平 成
現代
俳句協会
森 澄雄(1919〜2010)
 秋澄むや 湖のひがしに もぐさ山
 秋風の 吹きわたりゐる 伊吹山
 まぼろしの 鷹をえがくや 奥伊吹
 をりをりや 簾のそとの 伊吹山
 秋風の 吹きあたりゐる 伊吹山
平井照敏
の俳句(六)
平井 照敏(1931〜2003)
 
雪解けの かたまりとなり 伊吹山 (1974)
茨木和生
茨木和生(1939〜   )
 諸子舟 伊吹の晴に 出しにけり


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伊吹山と植物と地質と文学